仕事にまつわる思い

管理職で転職を4回してきましたそこで思う事

 転勤と転職そして大事な要素とは

《転勤と転職》

 転勤が嫌だとか、最初の赴任地からの異動に抵抗があるとか、東京に居たい、または東京には転勤したくないとか言う思いはサラリーマンの常だと思います。

今の仕事が嫌だ辛い、本当にこの仕事に合っているのか、もっと自分に合った仕事があるのではないか。このまま我慢して仕事を続けても良いことは無いのではないか。

その様に感じることや、時期は多かれ少なかれ、誰にでもあるのではないか。そんな時どうすればいいんでしょう。

かく言う言う私も転職と転勤に翻弄されたサラリーマン人生だった。

嫌なこともあったし、少し期待に胸を膨らませた時もあった。転勤が嫌で転職することになったこともあった。転勤、転職が良いとか悪いとは、まさにその人それぞで全く事情が異なるので、是非論はおいといて、昨今は昔に比べてハードルも低いし、困ったときに得たい情報も安易に入手できるようになった。しかし情報過多になりすぎて返って悩む場合もある。

私の場合に限っての感想と経緯をお話ししたい。

出身が静岡で大学は横浜、本社は東京だったが、最初の初任地は札幌だった。その後すぐに福岡に転勤になり、そこで約10年位居たが、当時の転勤サイクルが3年と言われていたので、とても長い方だった。結局家族も作り家まで買った。

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最初の転勤には右も左も判らない新人で、期待値だけで数合わせ的な教育配転と言ったところなので、本人の能力や力量など関係なかったと思って間違いない。

しかし、福岡からの転勤にはそれなりに会社の意思があったと思う。本人は折角安定して、そこそこ上手くやっていける自信もできたころなので、転勤など望むものでは無かったが、見込まれての異動だったので、そもそもをを関東経済圏で過ごしており、東京への苦手意識は低かった。プライベートでは転勤したくない理由はあったが、流れに身を任せる事にした。出世欲も多少あったと思うし、上司の期待も裏切れなかった。

年齢的には一番伸びる20代から30代前半まで福岡で仕事し、成績はかなり良かった思う。重要な客先や、高い売上金額を任せられ、それが良い意味でのプレッシャーになった。優秀営業にも何度も選ばれ、まあ、言えば素直な天狗状態である。

最初の転勤で営業ではなく東京本社の企画部に配属される事は営業の最前線から作戦本部に行くようなものだった。なんで自分なんだろうと思った。

同じ職場の一つ年上の先輩でその企画部から逆に福岡に転勤で来た方がいたが、その人は企画部時代評判が良くなかった事が転勤の一因との噂だったから気になるのは当然だ。しかし、色々考えてもネガティブになる理由は見当たらなかった。

不思議なもので、何かが起きた時、理由を考え、納得できる理由が判ると落ち着くものであり、次の行動の指針になる。この時もそうだったから、当時も転勤と言いながら、仕事内容もガラッと変わったので「転職」の様なものだと周りに言っては、丁稚奉公的スタンスを見せていた。

1年もすると年中イベントや、業務の繁忙期の状況も判るので、2年目からは従前の流れを自分なりにアレンジして、それでどうなるかを確認して行ったと思う。3年目からはほぼ仕事もこなせて上司もある程度任せてくれるようになるし、後輩が付くので、教えながら、更に仕事内容を精査できるようになる。

4年目になると、ここ三年で培ったノウハウや経験から一歩先を行く結果が求められた。リーダーシップや、目標に対する安定した達成と仕組みづくりである。

それらは職場内の人間関係を見れば大体上手く行っているかどうかは判る。部下か上司どちらかには好かれないと上手く行かないのだ。

東京には8年いたが、想定通りと言うか運も良く、出世もし、評価もされた。部下や同僚からも嫌われることは無かった。

それなのに転職を決断したのは、やはり転勤により環境が変わるハードルが上がったいたためだ。子供の教育や住む場所の環境等、自分ひとりだけの事にならないような事が転勤によって発生するとなると、若いころにはあまり無かった拘りがでてくる。

会社の期待と自分の要望とのギャップが埋められないとなると、”転職”と言う思いが浮かんでくる。上手くやって来ただけに、どこでもやれると勘違いしてしまっているのだ。いまでも、そのまま、会社の意向に従い、転勤していたらと思う事はよくある。

よく言う「たら、れば」であるが、一つ言えることは、今がもっと幸せかどうかは判らないが、ずっと同じ会社でサラリーマンを続ていたら、絶対に判らない価値観を得る事はできた。取引先の生え抜きの社員で役職者の方と話をした時など、特にあのまま転職しないでいたら、こんな人生観、考え方に自分もなっていたんだと気づかされる。

転職をしても大丈夫と過信したのには理由と経験があった。ちょっとそこをお伝えする。

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《当時のオフィース環境》

ここで、当時の仕事に関して話しておく。新卒で入った会社の仕事は、カメラ精密関係のメーカー販社の営業だったが、転勤と言っても、営業所から営業所では無かった為、今までの仕事の段取りや、やり方は全然違った。第一内勤なので外に出る事が少なく、そんなことが自分にできるのだろうかと素朴な不安があった。

《ビジネスの三種の神器

当時はまだ、PCが普及し始めるころで、ビジネス文章や配布資料は、ワープロで作成していた。(ワープロも自社製であった為、かなり機能の高いものが使えた)

スモールオフィースと言う言葉がキーワードで三種の神器として、ワープロ、コピー、Faxが必需品と言われた時代であり、生産性向上が一気に個人事業主ににまで広がった時代で、ワープロは出始めであったが、コピーもFaxもあったが一気に低価格化(と言っても30万を切る価格)していて、カメラルートでも販売店の自社利用として導入していた。

《時代はPCメインに》

程なく会社がアップルの総代理店となる事で、ワープロマッキントッシュになり、本格的PCを扱う事になった。マッキントッシュは当時、大学教授やデザイナー、医者などが好んで使う第四世代PCで、当時のNECPC-9801富士通はFM-8の時代である。(1980年代中頃)

OSがMS-DOSからWindowsに移行する過渡期で、アイコンでの対話形式(グラフィカルユーザインタフェース)が徐々に出始めた頃である。程なくウィンドウズ95が発売されアッと言う間に、オープンOSが主流となり、ウィンドウズかアップルOSかの二択時代のスタートとなった。当時からインテリ、医者、デザイナー等にはMACの人気が根強かった。

《ビジネスマンに必要なセンス》

外勤営業から内勤企画に携わり、さらに、PCを駆使して業務を効率化する事を経験したことから、これからのビジネスにはITのリテラシーが必須であると直感した。さらに言えば、東京本社でメーカーとの調整業務に携わっていたことから、日常的な英語能力があると、かなり仕事や人脈造りに幅がでると感じていた。それが、転職を思いたった時の転職方針になった。ITと英語能力を磨くことで、どのような業種や業態の企業でも受け入れられるアドバンテージに繋がると言う事だった。

《振り返ると》

最初の転職は38歳の時だった。転職年齢としては若くは無かったが、それなりに仕事に対する考え方や、スキルは身についていた。だから、ITと英語能力をPRすることで転職面談やPRポイントとしてアピールする事とした。

《転職は環境の変化》

当時でも転職サイトはあったが、基本エージェントと面談して、エージェントが希望をヒアリングして斡旋してくれるパターンだったが、今の様に転職サイトや登録することで自動的に案件が送信されてくる様な時代ではなかったので、良いエージェントとの出会いは、転職活動を大きく左右した時代だった。

転職エージェントも活用しながら、募集広告などにもかなりの数チャレンジして、内定を貰ったものも幾つもあったが、全部に入れる訳でも無く、任地と給料、休暇日数、企業の成長性等、今も変わらない基準で判断するしかなく、一抹の不安がある会社は断った。そんな中で、取り合えず〇〇スーバーと言う眼鏡販売小売チェーンの本部購買部課長の職は比較的条件を満たしていたので、一か八かで入社したが、かなり期待外れのワンマン会社でブラックだった。その為、3か月の使用期間中に退職し、今で言うつなぎ転職になってしまった。在職中にも辞める事は直ぐ決めたが、転職活動を積極的に進め、タイミグよく紹介された企業が官公庁相手の建設コンサルタント営業課長で福岡勤務と言う申し分の無い案件に巡り合えた。年収もアップしたこともあり、そこには9年お世話になる事になった。

色々あったが、大きく成功体験とは言えないが、結果が良ければOKと言ったところか、悩み苦しみ、一寸先が見えない不安がとても多かったが、これも一度だけの人生で、平穏に暮らすことに固執しなければ、結構楽しい生き方だと思っている。